24-04-13

俺が将来、何らかの理由で大物になってしまった場合、この日記がとんでもない曲解をされながら大勢に読まれると思うと興奮する。興奮しながら毎日文章を綴っている。それが天才の軌跡としてなのか犯罪者の歪みとしてなのかがわからないのも面白い。まあ、そんなことにはならず、電子の砂漠に埋もれていくのだろうな。it'a true wolrd.

 

俺はどんな複雑な問いに対しても一個の究極的な解答が存在し、それを追い求めることこそが人間の常だと信じている節がある。そして実際これは正しい場合が極めて多いと思うし、一方でそうでない場面も存在するのに俺の魂はそれを受け入れない。

これを理系的などとは形容して欲しくない。それは弱者の思考だ。文系はどうどう、理系はどうどう、なんて言説の大半は間違っていて、実際は賢者はどうどう、愚者はどうどう、である。そして、文系の方が大バカ者の絶対数が圧倒的に多いから、愚者の思考が文系の思考だと勘違いされている節がある。理系が論理的で文系が直感的だと?ふざけるな。直感的な人間はバカなだけである。

 

話が逸れてしまったが、俺は結局『なんのためにうまれて なんのためにいきるのか』に究極的な解を求め続けている、という話をしたい。ふと嫌なことがあった時に浮かんでくる感情として疑問があるのではなく、課題としてここ数年常に考えているし、僅かではあるが進歩をし続けている。明文化はしていないが、当然この日記にも断片的に記録している、と思う。そして、なんとなく、今日は俺の日本語が冴えている気がするので纏めたいというような気になっている。

 

人生において一番大事なのは「客観的に見て、面白いか」だと思っている。話がおもしろいだとか、一緒にいて楽しいだとかは二人称視点の評価であり、部分的には正しいかもしれないが本質では無い。何も知らない人に見られて、面白いか、を大事にして生きたいと思っている。もっと具体的に言うと、FF外の、共通FFゼロのアカウントで、日常ツイートも多いし、ウケ狙いでもないのに、なんとなくホームから過去ツイートを追ってしまうような魅力がある、フォロワー数300〜700人くらいのTwitterアカウントが、人生の”正解”だと思っている。

 

そして、そのためには直感的に行動するバカであるべきだと気がついた。昨日の日記はそういう意味である。計画的で、打算的で、思慮深い人間はつまらない。なぜなら、20代前半で人生の大半がネタバレされているからだ。いい会社に就職してお嫁さんを貰って子供を育てて孫に看取ってもらって、ふざけるなお前。脱サラして寿司の修行とか絶対しないだろ、お前みたいなやつは。言っておくが脱サラして寿司屋を始めた結果嫁に夜逃げされた人間の方がお前の200倍おもしろいんだ。そういうことなんだよ。

しかし、全てが直感的な大バカ者でもダメだから難しい。なぜならストーリーに伏線が無いからだ。突発的に寿司屋を初めても面白くない。会社の上司に奢って貰った寿司屋で、あまりの旨さに泣いて、子供の頃の夢を思い出して、その場で今までの人生を全て放り出して退社を決めるべきなんだ。そういう”熱”が感じられないとダメなんだ。賢さっていうのは冷却装置で、自分の中に湧き出た熱を冷ましてしまう。そうならないように賢さのスイッチをオフにしてバカになれる人間が、おもしろい人間なんだ。

出した例が極端すぎてフォロワー500人の脱サラ寿司屋のことが好きな異常成人男性になってしまったが、言いたいことの本質はそこじゃない。

人間は内なる熱に煽られて生きるべきで、そういう人間が客観的に見て面白いから、ツイートも漁ってしまう。そういうはなし。

 

ということで、第三者にツイートを見て欲しくなったので鍵を開けました。

俺は意味もなく日記を書き続けてる謎の人間がいたら面白いだろうな、と思って日記を書き続けています。